フレームの檻の中から

テレビドラマ等の中で架空のニュース番組を流すときは「フレーム内フレーム」が要請されます。つまり、その架空のニュース番組を映すテレビ受像機の枠ごと画面内に収めなければいけないという決まりがあるわけです。これは視聴者の誤解を避けるための倫理規定の一つなのですが、ここで面白いのはフレームがフィクションを約束するという原理です。

媒体を介するあらゆる情報はフレームに収まって届けられます。媒体を介しない情報、即ち私たちが直接自分の目で拾い集める情報にフレームが存在しないことと比較すればわかり易いのではないかと思います。「フレーム(=媒体)を介するあらゆる情報はフィクションである」という発想は些か情緒的過ぎるのですが、しかし、例えば「あらゆるフレームは其処に内示される情報のフィクションの可能性を示唆している」ということならそれを否定する人はいないはずです。

パソコンあるいはスマートフォンのフレーム、ウエブブラウザのフレーム、写真そのもののフレーム、私たちの「商品」は幾重ものフレームの檻に閉じ込められることになります。彼女らを其処に押し込んでいるのは私たち店舗スタッフ、語弊の多い喩えのような気もしますが、それが私たちの重要な業務の一つでもあります。否、別に「嘘を嘘で塗り固めている」と告白したいわけではありません。

如何に質の高いフィクションを構築するか、極力語弊の少ない表現を試みてみればそういうことでしょうか? それをフレームに収めた時点で、意識するしないに関わらず対象は一個のフィクションに堕してしまいます。肝要なのはその原理を心得ておくことです。フレームは無限に、限りない逸脱も容易な世界です。明確な倫理規定が存在しなければ、各人の「節度」に委ねるしかありません。案外と高次な倫理観を要請されるな、と、諸々の業務を通じて、そんなことを最近あらためて思いました。

J=Pサルトルに倣って最近よく「果たして風俗店で働く女性は実存が先んずるのか?」ということを考えます。彼女らを巧妙にフレームに押し込められた「商品」と捉えるのなら、サルトルが例えたペーパーナイフと同様にむしろ本質が先にある存在です。お店のコンセプトが明瞭であればあるほどそこで働く女性たちは「自由の刑に処された実存が先んずる何か」から遠ざかっていきます。

拮抗する実存と本質、拮抗する自由と不自由、フレームの檻から逃れて自由を謳歌しているように見える写メ日記もやはりフレームの中に、そのフレームの入子状態はより複雑であるとも言えます。

人間であり商品であり、まあ、本当はそんなことより実存を取り巻く「制度」について考えるべきなのですが…。難しいですよね。風俗店員が莫迦に務まらないわけです。

この話はまたあらためて、否、気が向いたら書きます。考えるのも億劫だし笑

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=

 銀座セレブ公式サイト
 https://ginza-celeb.com/
 女性求人サイト
 https://ginza-celeb.com/recruit/
 公式Twitter
 https://twitter.com/ginzaceleb/
 公式LINE@登録
 https://lin.ee/yFD2U9V

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=